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アルメニア <十字の石> を訪ねて  長岡 國人 氏
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この作品をつくり終えた1987年頃が僕の版画家としてのピークだったと思うんだけれど、この1987年を境に、僕は版画に終止符を打った。僕はさらに未知なる空間を再探求しようって思ってね。傷ついて破壊されたものに「光」を与えること。冷戦時代のドイツの空気を吸って、今僕がすべきことは、「闇」の中から希望の「光」を求めることだと確信した。それで、地球や大地を対象にして作品をつくろうと思うようになったんですね。

1989年、大地を「版」として、火山国アイスランドの「溶岩拓本」をつくった。世界が激震していることに僕は共鳴していた。僕はそういう世界の科学・政治の動きと「共鳴」しながら作品を作ってきたとしか言いようがないのね。この時期のドイツでは何があったかというと、1986年にはチェルノブイリ原発事故(これは今の日本にも大きく関係があることですよね)、1989年にはベルリンの壁崩壊、そして、1990年に東西ドイツが統一される。あの時代はすごかった、けれどさ、今が平穏なわけじゃない。そのことに鈍感な人がおおすぎますよね。今、この日本ね、非常にやばい時代ですよ。

以後、平面の版画におさまらない活動、いわゆる、インスタレーションといわれる立体造形もつくるようになっていった。ともかく、1987年を境に僕は大きく変わったんです。銅版画では遺跡をシリーズにしたもの、大地の発掘をテーマにしたものへと移っていった。
例えば、ハンガリーにある4世紀の世界遺産に登録されている遺跡で「生と死」をテーマに空間をつくったりしてね。「スピリチュアル・スポット」、あれはすごかったね。今日は時間がないから、詳しくお話しできないんだけどさ。

そして、1991年、京都精華大学のゲストとして呼ばれて日本に帰ってきた。日本に帰ってくると、日本は大きく変わっていた。やっぱりなんといっても「デジタル化」がものすごいスピードで進んでいました。デジタルは、なんでもパソコンのキーボードをたたいてつくってしまう。

長年銅版画に関わってきた僕は「版画の持つ社会性」について考えることになった。版画を通して社会に何ができるのか。デジタルにできないものは何か。結局「手」なんですよ。「手」しかない。そもそも、版画は「手」で行うものです。そうだ、「拓本」だと思ったんですね。「拓本」は人類が生み出した最も古い版画技法のひとつ。これだ。拓本という手段で、僕は、傷ついた遺跡や大地に「光」をあてるんだ、と思った。デジタルには絶対にできないことね。

2001年から2年間、僕はサバティカル(海外研究)の機会を与えてもらって、ヨーロッパの墓碑文化と拓本について、研究できることになった。拓本によって、失われつつある墓碑文化を保存すること、破壊されたものに「光」をあてること。それを社会に向かって提案していこう。人が死んで、その人がこの世に生きた証が記される最後の場所が墓碑、あるいは墓地。歴史や民族の違いを越えた人類共通の問題でしょ。

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