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パスワードを忘れた方
セッション
禅と無  ネルケ 無方 氏
1.キリスト教文化の中で生まれ育って(生と死を考える少年時代)
2.禅に出会う(坐禅で目覚めた身体感覚)
3.ドイツから日本へ(坐禅がしたい!)
4.修行時代(お前なんかどうでもいい。お前が仏になれ!)
5.安泰寺の住職になる(きゅうりのように育ちなさい)
6.「無」
3.  ドイツから日本へ(坐禅がしたい!)

そんな日本での短期ホームステイからドイツに戻り、私はベルリン大学で日本の文化や日本語を勉強しました。そして、1990年(平成2年)の4月、大学を休学して日本(京都)を再訪することにしました。しかし、またしても、「坐禅がしたい!」という私の思いは、どこのお寺でも受け入れられず、門前払いを受けました。唯一、外国人の私を受け入れてくれたのが、京都から少し離れた小さな町、園部(そのべ)にある昌林寺(しょうりんじ・京都府南丹市園部町)という曹洞宗のお寺でした。昌林寺の住職だけが、一般の日本人の社会人や外国人にも寛容で、私を受け入れてくれたのです。のちに、ここの住職は、アメリカへ渡って弟子を持っています。この昌林寺で、私はずっと接心(せっしん・一定の期間、集中的に坐禅を組んで修行すること)して過ごしました。

接心をして過ごすうちに、私は、もっと本格的に禅の生活がしたいと考えるようになっていました。そこで、昌林寺の住職に相談して、安泰寺を紹介してもらいました。住職に安泰寺を紹介してもらったとき、ああ、やっと私がずっと心から求めていた実践の場に出会えたのだ!と思いました。1990年(平成2年)秋、私は園部から安泰寺を目指しました。到着まで、ものすごく時間がかかりました。JRで浜坂駅まで行き、そこから一日に4便しかないバスに乗って、安泰寺の最寄りのバス停へ行く、そのバス停から先は、徒歩で山の上にある寺を目指すのです。

私が初めて安泰寺に向かった1990年のこの秋は、但馬北部を襲った台風19号のちょうど後でした。山道はすっかり流され、跡形もありません。ふもとまで迎えに来てくれた先輩と一緒に、道なき山を、まさに文字通り這い上がって登っていきました。安泰寺の前にある109段の石段だけはしっかり残っていて、その石段を、一段一段、踏みしめて登ったことを思いだします。安泰寺では、お風呂も五右衛門風呂で、薪で湯を沸かします。水道などなく、山から湧き水を引いていました。けれど、台風の影響で、出てくるのはひどく濁った泥水です。求め続けていた修行の場にやっと出会えた!とやってきた安泰寺で、私を待っていたのは、台風でぼろぼろに破損された寺の環境でした。

珈琲色の泥のお風呂につかりながら、「ああ、私はなんてエライところへ来てしまったんだろう...」と思いました。そんな思いでお風呂から上がった私に、師匠はお茶を出してくれながら、こう言いました。「君は何をしにここに来たのかね」私は「禅を学びに来ました」と答えました。すると、師匠はこう言ったのです。「ここは学校じゃない。誰かに教えてもらうところではないんだ、お前が安泰寺をつくるんだ。」と。

私は予想外のその言葉に衝撃を受けました。大学を休学してやってきた22歳の私が安泰寺をつくる?どういうことだろう、一体どうやって?「お前の心がけしだいで、学びの収穫は多くなるのだ」そんな風に言われても、私は戸惑いながらも、何かをつかめそうな予感でいっぱいでした。そして、半年、私は水害で被害を被った安泰寺を立て直し、山道を修復・復旧するために、必死で肉体労働を続けました。なにしろ私は、大学でも家でも、本ばかり読んでいたのですから、身体的には非常にこたえました。それでも、この厳しい肉体労働をする中で、師匠が初日に私に投げかけた言葉を、私は実践していったのです。

もともと安泰寺は、現在地とは別の場所にありました。100年ほど前、大正時代の終わり頃、京都は洛北、金閣寺の近くにできたお寺です。当初から檀家のない寺でした。つまり、修行僧が坐禅をしながら勉強ができる場所としてつくられた場所だったのです。京都時代の安泰寺では、澤木興道(さわきこうどう※1)や、内山興正(うちやまこうしょう※2)らが住職を務めました。現在地の但馬に場所を移したのは、1977年(昭和52年)のことです。

※1)安泰寺5代目住職。徹底した坐禅教育で知られる、昭和を代表する曹洞宗の禅僧。「何にもならんもののためにただ坐る」という只管打坐を貫き、その一生を通じて実践して見せた。
※2)安泰寺6代目住職。澤木興道老師の一番弟子と言われる曹洞宗の禅僧。

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