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セッション
禅と無  ネルケ 無方 氏
1.キリスト教文化の中で生まれ育って(生と死を考える少年時代)
2.禅に出会う(坐禅で目覚めた身体感覚)
3.ドイツから日本へ(坐禅がしたい!)
4.修行時代(お前なんかどうでもいい。お前が仏になれ!)
5.安泰寺の住職になる(きゅうりのように育ちなさい)
6.「無」
6.  「無」

さて、では最後に、「無」についてお話したいと思います。「無についてお話ししてください」と、こんな率直なリクエストをいただくのは稀なことです。まず、最初に、こう言っておきましょう。禅で言う「無」は、有るか無いか、有無の「無」ではありません。

それでは、禅で言う「無」とは何か。人間は誰しも、「あるもの」を求めています。何かが「ある」と思って、それを追いかけます。もっとお金持ちになりたい、素敵な彼女がほしい、豪華な家に住みたい。なにかあるはずのものを求めて、それを手に入れたいと思う。「無いもの」には興味がない。もっと自分に合った仕事があるはずだ、あるいは、どこかに悟りがあって、それを手に入れることができるはずだ。どうしたら悟れるのだろうか、手に入れることができるのか。

しかし、求めて来たものを自分の手でつかんで手に入れたとしても、手に入れたと思って3日もたてば、ん??......、何かが違うと感じはじめる。手に入れたと喜んだ気持ちはどんどん薄れて逃げていく。なあんだ、こんな程度のものだったのか、つまらない、と思う。「つかんだ!」「悟った!」と思っても、そう思った瞬間から、その気持ちは腐りはじめる。満足はむなしく消えていく。逃げてゆく。この不満足の原因は何か。何が「苦」の元になっているのか。

不満足の原因、私たちが求めている確かな「実体」とはなにか。つかみどころのないこの実体のないもの。私たちが「ある」と思いこんでいるものについて、「そんなものはないのだ」と見破っていたのが、古代のインドの仏教でした。あらゆるものに実体などないのだ。その実体のない「空」から、世界を見つめていたのが古代のインド仏教、古代インドの人々の宇宙観だったのです。この2500年前の初期仏教では、一切の執着を捨て、涅槃を得るしかないとしていました。なにも存在しないというところに立って、解脱を目指したのです。

ここで言う「そんなものはない」「なにもない」の「ない」は、仏教の言葉で言うと、「無常」、「無我」です。あるいは「空(くう)」です。この「空」の概念は、みなさんもよくご存じの、般若心経に出てくる言葉に表現されています。「色即是空、空即是色(しきそくぜくう、くうそくぜしき)」、この言葉を聞いたことのある方はたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。

「色即是空、空即是色」。「色」は目に見えるかたち全て、すべての物質のことを言います。すべての実体・物質に実体がないからこそ、すべては「空」なのだ、という意味です。むなしいと訴えているのではありません。「空」からすべてが出てくるんだ、「空」こそが、あらゆるものの母であり、母体なんだ。実体のない「空」こそが、すべての源であるんだと説いているのです。

つまり、「無」とは「天地いっぱいの全て」なのです。「無」とは、決して何もしないことではない、天地いっぱいの大きなものに、自らをゆだねることなのです。一切に対して自らをひらく、ひらかれていること。自由、自由自在。フリーであること、オープンであること。英語で言った方が、ニュアンスをお伝えしやすいかもしれませんね。

つまり「無心」とは、openmind。free。あるいは、creativeであり、flowであることなのです。「無」とは、何にも「無い」こと、エンプティではない、流れていくことであり、自由であり、一切に対してひらかれてクリエイティブであることなんだ。無心を「大心(だいしん)」と言ってもいい。何ごとにも動じない大らかな心。何も難しいことではありません。心を手放すだけ。無とは、無心とは、実は非常にシンプルなことなのです。

私が自分の名前につけた「無方」も、「つかみどころがない」という意味です。「方向が無い」のではなく、「あらゆる方向にひらかれている」という意味です。この「無方」という言葉は、宮沢賢治の「農民芸術概論」の中にも出てきます。賢治は、「無方の空に散らばろう」と書いている。私たちが生きているこの世界には、境界などどこにもない、あらゆるものは宇宙の微塵だ、無方の空に散らばろう、と。私は、自ら自分の名につけた、この「無方」を実践し、名前に負けないよう、これからも「天地いっぱい」360度に開かれた生を全うしたいと思います。なかなか、難しいことですけれどねえ(笑顔)

ということろで、終わりにしたいと思います。ありがとうございました。

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