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日菓のしごと、きょうの和菓子話  日菓
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甲斐:どれくらい変化するのか、楽しみですねえ。さて、それでは改めまして、今日はよろしくお願いいたします。最初の質問です。そもそも、お二人はどうやって知り合うことになったのですか。

内田:私は埼玉県生まれ、大学を出てしばらくは、ある出版社にいました。写真集や芸術書を多く扱う出版社でした。仕事を通して、手に職を持っている人、ものづくりの人のことを知り、あこがれるようになりました。
そんなとき、和菓子のスタイリングの本を出すことになったんです。そして一冊の本に出会いました。これが衝撃的でした。「和の菓子」という本です。レシピ本でもなく、写真集でもない。直感で「和菓子は可能性ある」って思いました。勉強したい、つくりたいと思いました。

それで、仕事をやめて、京都に移住しました。やっぱり和菓子といえば京都だって思いましたから。24歳のときのことです。バイトをしながら専門学校に通って和菓子を学びました。で、そのバイト先で、杉山と会ったんです。

杉山:私は三重県生まれ、京都には大学入学でやってきました。学生時代は写真部に所属していて、将来どうしようかなあ、といろいろ考えていました。
そんなとき、「和の菓子」という本に出会って、「和菓子を学んでみたい」と思ったんです。それで、和菓子屋に就職しました。私はつくることがしたかったんですが、まずは販売員をしないさいということで、販売を担当することになりました。私が店頭にたっているとき、内田が客としてやってきたんです。

私の勤めていた和菓子屋では、「饅頭喰い人形のお干菓子」というのがありまして、、、えと、すごい名前ですよね(笑)。饅頭喰い人形というのは、もともとは土人形として有名なものなんです。落語のネタとして扱われたりもします。「お父さんとお母さんのどっち好き?」と両親から聞かれた子どもが、お饅頭を二つにぱかっと割って「どっちもおいしい!」と応えたという逸話を持つ人形です。お父さんもお母さんも、どちらも比べようがないほど大切だと示した頓知のきく子どもの饅頭喰い人形。その、干菓子を取り扱っていました。私は、この饅頭喰い人形の干菓子が大好きで、これはいい!と思っていたんですが、全然売れなくて(笑)

そしたら、ひょこっとやってきたお客の内田が、5箱も買ってくれたんです。え、この人何者なんだろう?と、そのとき、すごく印象に残りました。というのも、饅頭喰い人形の干菓子は、1箱1000円くらいする高価なものでしたから。一人で一気に5箱買ってくださる方は、なかなかいませんでした。

その日から数日たったある日、仕事で休憩室に入ったら、そこに内田がいたんです。バイトとして私の勤めていた和菓子店にやってきたんですね。あーー、あのときの! 饅頭喰い人形の人だ!って、おもわず話しかけました。
しばらくしてから、二人でご飯を食べにでかけるようになり、いろいろ話すようになりました。和菓子を作品として見せるようなことができたらいいねーとか。和菓子の写真って、黒塗り盆に楊子があって、お抹茶が添えられている、あるいは花がちらりと見えている、というようなものばかりで、そのことに対して違和感というか、ちょっと違うなあって思っていたので。

私たちの最初の活動は、「屋台」でした。友達が、KBSとMETROを会場として開催されてる「ぼろフェスタ」に出店していたので、そのブースの一角を借りて出店しました。自分たちの部屋から机や棚を持ち出して、和菓子を食べてもらうコーナーをつくりました。趣味というか、まさに遊びでした。

この出店のために、仕事を終えてから3日間は徹夜でお菓子づくりに励みました。このときできたお菓子が「3時」という羊羹のお菓子です。時計の長針と短針が3時を指しているところを、切り取ってあります。

今、私たちは、私たちが出会った最初の和菓子店を出て、それぞれ別の和菓子屋さんで働いています。働きながら、日菓の活動を続けています。

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