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左官のしごと  久住 章 氏
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中田)ところで、久住さんは、道具をつくる職人さんを守るために、倍の値段で買うなどしてこられたんですよね。その辺りのお話から、久住さんが育った淡路のこと、子ども時代のことなども、少しお話してくださいますか。

はい。僕らの左官仕事は道具をつくる職人さんに支えられています。高いから買わない、安く買いたたくのでは、僕らは自分で自分の首を絞めることになる。20代のころ、こんなことがありました。僕は1万円ちょっとで3丁の道具を買った。安うて道具買えたってね、帰って親父に見せたら、親父はこう言いました。「そんなもん、お前、倍払って来い。そんな値段でお前が買うてたら、職人さんは食べていかれへんやろ、倍払え。」と。それで僕は、祝儀袋にお金を包んで、すぐに持っていきました。

そのことがあってから、僕は道具への思いが変わった。僕が道具を買っていた鍛冶屋さんは、手づくりの道具が全く売れずに困っていた。でも1年間に300万円あったら、なんとか生きていけるんちゃうかと思って、「俺の道具、なんでもええからつくってくれ。俺が注文とってきたるから」と頼んで、仲間の左官たちにも倍の値段で買ってもらった。職人さんには僕らが注文せなあかんのです。3年間、注文が少しずつ入るようになるまでずっと、倍払い続けました。

僕の生まれた家は、もともと廻船問屋をしていた地主の家でした。親父は婿養子です。高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)ってご存知ですかね、彼より古い廻船問屋でした。北前船の時代が終わると、米、酒、醤油などを売ってましたが、僕の爺さんの代には、醤油だけが残っていました。

爺さんは文化的なことは大好きで、歌でもなんでもできるんですが、商売はさっぱりでした。それでさっさと45歳で隠居するような人でした。親父は地主に養子に来たのに、なぜか左官を職業として選んだんです。母は家で生け花を教えていて、地域の多くの人が習いに通いにきていました。お弟子さんが360人くらいもいて、結構その地域では有名な生け花の先生だったんです。展覧会などもしてました。生け花の展覧会をするとなると、爺さんが手伝ってましたね。そんな環境で育ちましたから、門前の小僧というわけで、僕は生け花なんか習わなくても花くらい活けられた。ささっとその辺りから採ってきてね。

僕は爺さんから商売の話を聞いて育ちましたから、商人というのはおもしろそうやなあ、大きくなったら僕も商人になりたいなあ、と思うような子どもでした。「商人になるために何を勉強せなあかんの?」と聞くと、爺さんは「世間を知ることや、働くことで世の中の人間関係をすることや」と言った。それを聞いて、小5の僕は、すごく商人になりたくてしかたなくなっていくんです。それで、まちの菓子問屋に出入りするようになります。

菓子問屋でのアルバイトが学校にバレて、怒られて、座らさせられました。でも、僕ね、要領よかったんです。先生に囲碁を挑みました。碁で3回勝ったら、なんでも言うことを聞くと約束して。それで僕が勝ったんです。そのことを親父に話したら、「お前、それはあかん、先生の顔を立てたらなあかん」と言われた。学校に行け!と怒るんじゃなくて、そういう親でした。僕は両親や祖父母に怒られたことが一回もない。勉強せえ、なんて言われたことも一回もないです。

結局、23歳で独立して左官を始めるんですけれど、「あ、久住先生のとこの息子さんか」って、淡路ではどこに行っても大事にしてもらいました。ええ仕事をまわしてもらいましたね。それで、28歳で独学でバロック技術を身につけた。そして36歳の時、神戸大の先生の仲介で西ドイツのアーヘン工科大学に留学するんです。ここで、日本の左官技術が世界で一番優れていることをはっきり理解しました。ドイツにもいっぱい木造建築あるんですね。初めて見るものでも、現地で実物を見たらすぐ分かる。まず、ドイツの道具は蹴とばしてもええような、どないでもええもんばっかり。道具一つとっても、日本はずば抜けてるんですよ。

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