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セッション
茶の湯の心  谷 晃 氏(野村美術館館長)
主催者の挨拶

セッション
1.あいさつ
2."茶の湯の心" を包み込む日本文化の根本にあるもの
3."茶の湯" の根本にある「禅」
4.「禅」とは、人間としての生きざまを考えていくもの
5.大きく変わってきた茶の湯、これからも変わっていく茶の湯
6.文化のベースに常に "茶の湯" の心を
3.  "茶の湯" の根本にある「禅」

茶の湯の根本にあるのは「侘び数寄」です。では、侘び数寄を形成するもの、侘び数寄を形成する中で最も重要な働きをしているものはなんだと思いますか。それは「禅」です。茶の湯が成立した16世紀のリーダー的存在だった人は、すべて例外なく禅と関係がありました。「茶禅一味」という言葉などもありますね。禅の次に重要なのが、うたの心、つまり「和歌」です。禅と和歌、この二つがあってはじめて、茶の湯の根本にある侘び数寄が形成される。(これまで、私はこの二つは車の両輪の関係だと思ってきましたが、最近はどうもちょっと違うなあ、まず禅があって、その上に歌があるんだろうなあと思っています)

茶の心はとてもひとことで言えるものではありませんが、「姿と心を美しくすること」だと申し上げていいのではないかと思います。心とは修業つまり禅、姿とは稽古つまり点前です。茶の湯を学べばそれでいいのかというと、残念ながら、現在の茶の湯の「学び方」では、姿も心もきれいにはならない。お点前のお稽古はやっても、「禅」も「和歌」もそこで学ぶことがないからです。

禅を知るには、坐禅をするより仕方ありません。禅に関する本をどんなにたくさん読んだとしても禅のことはわからないとはっきり断言できます。たくさんの時間をかけて坐らなくてはいけないのです。これは言ってみれば修行ですね。しかし、茶の湯が現在の家元制度の中に取り込まれているかぎり、茶の湯の学びの場で修行を行うことはありません。また、家元制度を外れて茶の湯を習うことはあり得ないのです。

私が茶の湯に近づいて行ったのは、京都大学の「心茶会」に入ったことに始まります。心茶会というのは、久松真一という仏教学者を指導者として、茶の湯を学びたいという有志によって立ち上げられたサークルです。久松先生は、西田幾多郎や鈴木大拙に影響を受け、自らも禅の修行をし、悟りをひらかれた方です。久松先生は「茶は禅の在家的存在である」とおっしゃっています。

京大の心茶会では、稽古と修行を一緒に行っていました。稽古は裏千家の家元でやっていました。淡々斎宗匠がよく出てこられて指導なさっていました。今では考えられない贅沢なことです。点前稽古に入る前には利休堂で必ず1時間、坐禅をするのです。お稽古はそのあと。お稽古(点前)と同時に、禅の修行も必ず行います。座禅が必要なのです。たとえ 10 分でも 20 分でもいい。瞑想の時間を持つことをしなくてはなりません。ただ座っていればそれでいいということではありませんが、それでも修行に近づいていくことはできる。とにかく、禅は多くの時間を坐らなくてはならないのです。

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