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ミシュラン社とちょっとだけフランスの話  森田 哲史 氏
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さて、ここからは、兄エドワードに関するお話をします。それは、1枚の絵をめぐってのお話です。数年前、宇都宮市で開催されたとある美術展に、フランス人の風刺画家、ジョルジュ・ビゴー(1860年生まれ)が描いたこの絵(人力車と飛脚姿の男性が描かれた絵)が展示されました。この絵は、日本で最初に車が描かれた絵とされるものです。よくご覧になってください。この絵の中のこの人(飛脚姿の男性)、似てませんか? そうです、我らがビバンダムです。

いや、冗談ではなく、なんとなく似ているというだけでなく、本当にこれはビバンダムではないのか!?ということで、社長の命を受けまして(笑い)、私が調べることになりました。専門家に協力していただいて、この絵の裏を見せていただいたのです。すると、なんと、ビゴーの署名と共にフランス語でこう書かれていました。「ミシュラン社に誠意を込めて」。いやあ、もうびっくりしましたねえ。「ミシュラン社」と書いてあったのですから。
しかし、この絵が書かれた年代が不明である、ということで、「日本で最初に絵に描かれた車のタイヤはミシュラン社のものである」ことの証明にはなりませんでした。けれども、ビゴーがミシュランを意識してこの絵を描いたことは間違いありません。

それにしても、なぜビゴーが「ミシュラン社に誠意を込めて」この絵を描いたのか、という疑問は残ります。ビゴーとミシュランの接点はあるのか、あるとすればどこにあるのか。またも社長の命を受けまして(笑い)、私は調べました。すると2人が同じ美術学校に通っていたことが分かったのです。パリ国立高等美術学校。エドワードは、日本に行って浮世絵師になりたい!と思っていましたからね。
早速、私はこの美術学校を訪れ、2人に接点がなかったか学術員に聞きました。結果、ビゴーとエドワードの在籍期間は微妙にすれ違っていることが分かった。ビゴーは一刻も早く日本に渡るため、早々に学校を出ていたのですね。2人がここで直接会ったことはなさそうだ。私の思惑は外れてしまいました。

しかしここで新しいことが分かりました。なんと、エドワードの描いたデッサンが残っているというのです。多くの在校生の中でその作品が学校に保管されて残されているというのは、彼が非常に優秀であったことを示しています。つまり、エドワードはかなりの成績を修めていた、具体的に言うと彼が在籍していたある年の次席であったことが分かったのです。

エドワードの絵が残っているなんて思ってもみませんでしたが、これはミシュラン社にとって幸運でした。私の仕事の最大の功績は、エドワード・ミシュランの3枚のデッサンを探し出したことだと言われているくらいです(笑い)。

この美術学校では、1900年頃まで主席の生徒には5年間のローマ留学のプレゼントが与えられていました。エドワードも主席を目指して必至でがんばっていたのだと思います。もし、エドワード・ミシュランが主席になっていたら、卒業後ローマに留学して本格的に画家の道を歩んだことでしょう。そうなっていたら、今のミシュラン社はありません。今、私がこうしているのも、ひとえに彼が「次席」であったからなのですよね。

もう一つ、今度はこの写真を見てください。1898年に撮影されたバナール社の車が写った写真です。横浜外国人居留区に棲んでいたフランス人技師デフネによって、明治時代に輸入された日本初の自動車だとされています。この自動車は、パナール・ルバッソ-ル社(19世紀末期から自動車生産を始めた世界有数の老舗自動車メーカー)のもので、この車のタイヤがミシュランのものではないか確かめよと、またまた社長の命を受けまして調べました。しかし、日本で最初に走った自動車のタイヤがミシュラン社製品であったことかどうかは、証拠不十分で立証できませんでした。

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