セッション
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ミシュラン社とちょっとだけフランスの話 森田 哲史 氏
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ところで、タイヤメーカーのミシュランが、なぜ観光ガイドの本をつくっているのか、みなさん疑問に思われるかもしれません。一言で「タイヤをちびらせる」ため、と申し上げればピンとくるでしょうか。 1900年頃のフランスでは、週に一度、近所の教会にミサに行き、その後家族でご飯を食べ、お腹ごなしに散歩するため、車に乗って街の目抜き通りまででかけて、車を降りてぶらぶらして、帰ってくるというのが典型的なライフスタイルでした。週に一回、近所の街の通りまで車に乗るだけ。それじゃあタイヤはちっともすり減らない。ミシュラン社のタイヤは、耐久性にも優れた良品でしたからね。とにかくたくさん車に乗ってもらって、タイヤをちびらせて新しいタイヤに買い換えてもらう必要がありました。もっと遠く外へ出てもらわなくちゃいけない。固定化した慣習を越えて、知らないまちへ勇気を持って出て行ってもらいたい。 そこで、フランス人は食いしん坊だ、美味しいものがあれば遠くへ出かけてくれるにちがいない、というマーケティング的発想で、ミシュランガイドづくりが始まったのです。1980年のことです。さらにもっと「車を使ってもらう」環境を整えるため、1908年には道程作成部を、1910年には道路地図部を設立してきました。 道程作成部では、「今度○月△日に~へ行きます、おすすめの場所を教えてください」という1人ひとりのお客様の声を手紙で受け付け、お手紙で返事を出すという事業をしていました。個々のニーズにそって、非常に丁寧に対応していたのです。にもかかわらず、クレームの電話が殺到した。どうしてだか分かりますか? さあこれには困りました。確かに当時のフランスの道路には標識などなかったのです。お客様の苦情も、もっともですよね。そこで、ミシュラン社はフランス政府に標識をつくってもらうよう働きかけました。かなり頑張って圧力をかけて交渉したみたいですが、だめだった。当時のフランス政府は、対ドイツ戦争にばかり力を入れていましたたからね。 よし、わかった、政府が動かないなら仕方がない、自分たちで標識をつくるしかない。こうしてミシュランは道路標識づくりを開始します。1977年まで、フランスの道路標識はミシュラン社がつくっていたのですよ。公共サービスとしてあるはずの道路標識を一民間企業が行っていたことは、現在の私たちの感覚からはちょっと信じられないかもしれませんね。今もフランスに残っている石の古い標識の裏側を見ていただくと、ミシュランマンの刻印が確認できます。 さらに1926年、最初のグリーンガイド(ブルターニュ編)ができます。このとき、初めて星の数でオススメ度を示したのです。わざわざ観光する価値がある:★★★、寄り道する価値がある:★★、興味深い:★、というように。
写真でイメージをうえつけてしまうと、その場所を訪問する人は、その与えられたイメージを「確認」するだけになってしまう。そうじゃない、イメージをかきたてるだけでいいんです。例えば、本福寺(1991年、安藤忠雄によって建築された淡路にあるお寺。)について、ミシュランはこう記述します。 ガイドブックの調査について、おもしろいエピソードがあります。四国の鳴門のうずしおは有名ですよね、日本人はそれをわざわざ見に行きます。いわゆる観光スポットとしてガイドブックにも載っていますし、いつも大変多くのお客様でにぎわっています。 ところが、鳴門のホテルに一泊した次の日、彼女が私のところに興奮気味でやってきて「すばらしい、感動した!」と言うわけです。一体、彼女は何に感動したのか。「今朝起きて海を見ていたら、朝靄にかすむ中で漁師が小さな漁船にのってワカメを採っていた。得も言われぬ絵画のように美しい風景であった。日本の漁師はまるで農夫のように海藻を育て収穫するのだ。なんてすばらしいんだ。こんな風景がみられる場所はほかにはない!」と。 以上、お話ししてきましたように、タイヤづくりから始まったミシュランは、オススメ場所のご案内、道路標識の設置、ガイドブックの作成・・・と、一貫して「快適に車で動ける環境づくり」を行ってきました。「人やモノのモビリティの発展に貢献すること」は、当時から微塵も揺るがないミシュランの社是です。今後もずっと、全てのお客様に移動する楽しさを提供していくことがミシュランの使命です。 → 次のページ
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