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炎のチャレンジャー  美藤 定 氏
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中田)それでは、そもそもの、少年時代からのお話を伺いましょう。

美藤)少年時代、大変問題児でした。但馬コネクションで木村さんが発達障害の話をされましたが、私にぴったりでした。今になって、わかりました(笑)。

小さい頃から、変わっていました。勉強は大嫌い。本を読むと眠くなる。学校でも家でも怒られる。近所でもどうしようもない悪ガキと言われていました。喧嘩しても勝てない。運動会はいつもビリでした。それが、小3で自転車に乗るようになり、競走して初めて買ったんです。コーナーでもスピード緩めませんから。初めて「俺も勝てた!」と嬉しくて、1週間後に自転車を全部バラしました。貧乏で小遣いがもらえないので、新聞配達のアルバイトをしていました。こんなふうに、小さい頃は常にコンプレックスで何をしても調子が悪い。俺には何もないのか、何かあるはずだと常に考えていました。

中学になって、法事のときに親戚の叔父さんがスーパーカブに乗ってきた。借りて乗ってみると、これはすごい。その後、親戚から乗らないバイクをもらって、無免許で毎日乗っていました。16歳で免許を取ってから、正式に公道を走れるようになりました。

そんなわけで、工業高校に進学希望だったんですが、親に農業を継げと、農業高校を押し付けられました。ところが、高2になって、今度はその親が「これからは農業では食っていけない」と言い出したんです。いったい俺はどうすればいいのか。高校卒業後、鉄工所を手伝わされましたが、面白くないんです。

1972年、19歳のときに沖縄が返還されました。これは見に行かないとと思って、沖縄へ行きました。ヒッチハイクと野宿で鹿児島まで行き、そこからフェリーで那覇に渡って、沖縄を回りました。

本部半島の向かいの伊江島でキャンプをしたときのことです。当時、アメリカはベトナム戦争をしていて、私と同じぐらいの年のアメリカ人がキャンプをしていて、そこに毎日混ぜてもらっていました。ある日、彼らが「明日、前線へ帰る」と泣き出すんです。「俺たちは人殺しをしに行く。人殺しなんてしたくないけど、国の命令なんだ。拒否すれば刑務所に送られる。刑務所に行くか、戦争に行って人殺しをするしかないんだ」と。豊かなアメリカで、隣人と仲良くしろといわれて育った若者が、です。

聞くまで、わからなかった。「お前はいいな。自由がある。嫌なことをしなくていいじゃないか」と。そんなこともわからなかった。自分のことで、コンプレックスだとかでくよくよして。そんなのは小さなことだとわかった。わかったら、情けない、悔しい。ハンマーで殴られたようなショックを受けました。自由のありがたさ、自分の愚かさがやっとわかったんです。俺も世界を見て賢くなりたいと思いました。

中田)親に言われた進路は思うようにいかなかったんですね。

美藤)父親も同じ貧乏な家に育ち、中卒でした。神戸に一旗揚げに行ったが、長男が戦死して呼び戻されました。戦争に翻弄され、思いとは違う人生を歩まされた人でした。言われることは素直に聞いていました。

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