セッション
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炎のチャレンジャー 美藤 定 氏
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中田)それでは、そもそもの、少年時代からのお話を伺いましょう。 美藤)少年時代、大変問題児でした。但馬コネクションで木村さんが発達障害の話をされましたが、私にぴったりでした。今になって、わかりました(笑)。
中学になって、法事のときに親戚の叔父さんがスーパーカブに乗ってきた。借りて乗ってみると、これはすごい。その後、親戚から乗らないバイクをもらって、無免許で毎日乗っていました。16歳で免許を取ってから、正式に公道を走れるようになりました。 そんなわけで、工業高校に進学希望だったんですが、親に農業を継げと、農業高校を押し付けられました。ところが、高2になって、今度はその親が「これからは農業では食っていけない」と言い出したんです。いったい俺はどうすればいいのか。高校卒業後、鉄工所を手伝わされましたが、面白くないんです。 1972年、19歳のときに沖縄が返還されました。これは見に行かないとと思って、沖縄へ行きました。ヒッチハイクと野宿で鹿児島まで行き、そこからフェリーで那覇に渡って、沖縄を回りました。
聞くまで、わからなかった。「お前はいいな。自由がある。嫌なことをしなくていいじゃないか」と。そんなこともわからなかった。自分のことで、コンプレックスだとかでくよくよして。そんなのは小さなことだとわかった。わかったら、情けない、悔しい。ハンマーで殴られたようなショックを受けました。自由のありがたさ、自分の愚かさがやっとわかったんです。俺も世界を見て賢くなりたいと思いました。 中田)親に言われた進路は思うようにいかなかったんですね。 美藤)父親も同じ貧乏な家に育ち、中卒でした。神戸に一旗揚げに行ったが、長男が戦死して呼び戻されました。戦争に翻弄され、思いとは違う人生を歩まされた人でした。言われることは素直に聞いていました。 → 次のページ
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