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炎のチャレンジャー  美藤 定 氏
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中田)引きこもらずに、向かって広げていったんですね。

美藤)自分は落ちこぼれないぞと思って、しがみついていました。自分では真面目にやっていたつもりだけど、尺度が合わない。どうやってやるのかわからない。何をしたいのかもわかりませんでしたが、とりあえずアメリカに行こうと決めました。豊岡に帰り、3年で準備のつもりでしたが、結局、24歳で渡米しました。

アメリカ、メキシコ、カナダ、アラスカ。6か月間、野宿しながら750ccのバイクで。ロスからスタートしてロスに戻ったんですが、持っていた部品もなくなって、修理しようにも部品がない。ハリウッドで、カワサキのディーラーが、「ヨシムラという日本人で、レーサーを作る仕事をしている人に聞けばあるかも」と教えてもらっていくと、部品があった。そこで修理しているのを見たオヤジが「お前、バイクを弄れるのか」と。アルバイトに誘われました。

ポップ吉村というこのオヤジは、バイクのエンジン・チューニングの神様といわれた人で、日本のモーターレースの創始者です。海軍の飛行機乗りでしたが、パラシュートが開かずに大怪我をしました。空への夢をあきらめきれず、整備士の免許を取り、その後、パイロットではなく機関士として空に復帰。特攻隊の先導役などさせられて深酒をするようになり、胃潰瘍で入院しているうちに終戦を迎えたそうです。終戦後はオートバイのチューニングを商売にしていました。

戦後、ホンダがオートバイを作ることになり、世界の技術に追いつくためレースに参戦。先進国のバイクに勝って認められるようになったものの、ホンダからの部品供給が止まるなどあって、アメリカに渡りました。それからもいろいろ大変な目に遭って、ようやく再起しかけたときに火事を出して入院。私が渡米したのはちょうどその頃でした。デイトナの大事なレースの10日前。絶対に行かないと会社が潰れるという状況でした。ちょうど、使い勝手の良い小僧が来た、という感じだったんですね。3人のメカニックで作ったレースで3等を獲りました。俺も1等とれるかもと思い、真面目に修業しようと思ってこの世界に入りました。

いろんな国にも行きましたが、タイムリーにいろんな人に出会えました。アメリカでは吉村というオヤジ。この人、技術は抜群でしたが、理論はまったく教えてくれなかった。ところが、アメリカのホンダに居たユドー・ギートルという男がいろんなことをものすごくよく知っていて、理論的なことを全部説明してくれたんです。どうしてかな?と思っていると、必要なときに答えをくれる人が現れる。あーそうかと思うので、学校と違って眠くならない。理由はわからないけど、一生懸命やろうと思っていたら、そういう人が出てきてくれて。神様が見ていてくれてるのかと思うほど、良いときに良い人に出会って、わからなかったことがわかるようになってきました。

中田)やろうという意志ですよね。追求していなければ、出会っていてもわからないかも。

美藤)とにかく、自分なりに考えて納得したら一歩前に進めることがわかって楽になれました。

1982年のワールド・グランプリに、ホンダ・レーシングチームで参戦しました。ベルギーのブリュッセルにレースの基地を置き、世界を転戦したんですが、このとき、最初の奥さんと恋に落ちました。金髪の青い目の奥さんです。会社を辞めてふたりで世界一周旅行に出かけ、豊岡に帰って住んでみました。BITO R&Dを始めたんですが、商売したことがないので、貧乏のどん底でした。金の切れ目が縁の切れ目で、奥さんは僕を捨てて帰ってしまいました。捨てる神あれば拾う神ありで、現在の妻に出会いました。世の中よく出来ていて、困っているから最初はボランティアで手伝ってくれて、そのうちに結婚しました。

そうこうしているうちに、イタリアから電話が入り、「すぐイタリアに来い。レーシング・メカニック・スクールをやろう」と声をかけてくれました。週に千ドル(当時の25万)払うからと言われ、イタリアに渡りました。地中海周辺の学生や先生、エンジニアを相手にチューニングを教えました。そうすると、部品はどうする?と聞かれるんですね。そこで「作ってやるよ」と約束して日本に帰って作り、送りました。欲しいといわれるものを作る。お客さんが欲しいものを作ればいい。必要としている人のところへ届ければビジネスになることがわかりました。日本の雑誌社から「紙上でスクールをやってくれ」と依頼され、読者から部品の注文が来るようになり、少しずつビジネスになっていきました。

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