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セッション
何が私を駆り立てるのか?  中貝 宗治 氏(豊岡市長)
1.主催者あいさつ
2.わたしのまちの市長さん(子どもの視点から)
3.「豊岡」を語るときの視点、そこにある 2 つの大きな「感動」
4.「中貝流」はいかにして育まれたか(1)
5.「中貝流」はいかにして育まれたか(2)
6.感動が感動を呼ぶ。心を動かすのが「中貝流」(1)
7.感動が感動を呼ぶ。心を動かすのが「中貝流」(2)
8.感動をベースにした「中貝流」哲学
5.  「中貝流」はいかにして育まれたか(2)

せまり役:大学卒業後、兵庫県の職員時代はどんなことを担当していたのですか?

最初、私立学校の施設管理をする部署にいました。
次に、東播磨県民局の産業課に配属になりましたが、これがもう、毎日が日曜日、なんです。なんにもすることがない。しかたがないから、本屋にいって片っ端から本を読んでいました。この時ほど本をたくさん読んだ時はないのじゃないかな。夕日を見ながら、ああ、こんなことでいいのか、と思っていました。

次に、文書課に異動しました。ここでは、裁判で検察官が使うような答弁書を作成していました。この条例が何を目指しているのか、4 行で書く、というようなことが仕事でした。わかりやすくまとめて書く訓練が徹底的にできた。後で考えると、ここでの経験は非常に役に立ちました。
この後、大阪大学の大学院に 2 年間派遣されました。経営学を専攻し、毎日論文に向き合っていました。僕の書いた論文は「官僚制組織」です。

この後、企画室に配属になり、新宮町にあるテクノポリスの建設・誘致の担当になります。世界最大の X 線を取り出す装置を作ろうというのです。誘致するためには、相手を説得させるために分かりやすく説明する必要があるのですが、あまりにも専門的すぎて、誰もわからない。私の他の担当者も、土木や経済や法学を出た者ばかり。そこで、僕は大量の本を読んで勉強するんですね。ひたすら勉強して、専門的な知識をわかりやすい言葉で説明しようと、四六時中考えていた。朝、職員住宅を出てから帰るまでずっと、どうしたら分かりやすく説明できるのか、考え続けていました。

せまり役:この写真にある専門書を全部読んだんですか。すごい! ある意味、子供時代の「科学者になりたい」という夢をかなえていますよね。そしてその後、どういう経緯で県会議員、市長になっていくんですか。

1990 年の夏に父親が倒れるのです。ガンの末期でした。そして 11 月下旬に他界してしまう。僕は政治の世界なんて大嫌いでした。県議会議員だった父親の選挙を手伝わないどころか、事務所にだって一度も近づいたことがなかったくらいです。だから、僕の父の支持者たちは僕の存在を知らなかった。

実家で行うお葬式に加え、ありがたいことに、豊岡の市民葬や、兵庫県の議会葬などもしていただいた。それで県議会葬で僕があいさつをしたわけですが、僕のあいさつが「立派」だったのです。それで、僕のことが支持者にもバレて、「君しかいない」と説得されて、それで県議に出てしまったんですね。

せまり役:県議会議員のころ、「鸛(こうのとり)飛ぶ夢」という本を出していますよね。すでにこの中に「小さな世界都市」という言葉も書かれている。豊岡のまちのビジョンはあったんですか?

僕が県議になったのは 1991 年の春、地方都市はどこも「ミニ東京」を目指そうとしているような時代でした。ちょうど神戸でもハーバーランドの開発が進められていて、だーっと、あっという間に大きな建物が建っていくんですよね。神戸と豊岡を行き来していた僕は、神戸と豊岡の資本力の差を、まざまざとみせつけられた。これはかなわない、豊岡が神戸に資本力でかなうはずがない、豊岡は神戸とは別の道を行くしかないと思っていました。

そういう思いから出たのが「小さな世界都市」というフレーズです。なにか具体的なものが頭にあったということではないです。正直に言って、僕は但馬の明るい未来を信じて政治家になったのではない。僕は自分の残りの人生を但馬なんかに捧げていいんだろうかと、悩んだ末に決心したんです。

父が亡くなった後、県の職員だった僕は、政治家になれという説得攻勢のなか、いよいよ決心しなくてはいけないと思いながら、毎週末ごとにお参りに神戸から豊岡に帰っていました。金曜日の仕事を終えて夜に豊岡に帰ってくると真っ暗、まだ駅前の商業施設がない時代です。11月の豊岡は雨もよく降る。真っ暗なわが家のある地域へ移動しながら、ざーと雨に濡れながら、自分の残りの人生を、こんな暗い豊岡に捧げて本当にいいんだろうか、自分の人生をこんなところにかけられるのか、とさえ思っていた。だから、理由はあとづけです。

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