セッション
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新しい広場をつくる 平田 オリザ 氏
11. 新しい「広場」をつくる ②
誰かが誰かを知っている居場所(ゆるやかなネットワーク)をつくる いきなりちょっと話は飛びますが、人だけなんですよね。所属する共同体を複数持つのは。「会社」「家族」「学校」... 、複数の共同体・社会に所属するのは、人だけなんです。学校だけにしか居場所がなければ、なにかあったときすぐに引きこもってしまう。会社にしか居場所がなければ、ちょっと失敗したら会社に行けなくなってしまう。最悪の場合、自殺してしまう。 重層性のない社会は息苦しい。私たちは、複数の社会に所属することで、安定するんです。複数の共同体に所属していくことに、僕は大きな意味があると思っていて、何か一つだけの共同体にしか所属していない人の社会は、もうこれからは成り立っていかないと思っています。全く持続可能ではない。その「共同体」が、劇場であっても、図書館であっても、フットサルやバスケットのチームであっても、なんでもいいと思うのです。どんな人にも居場所があって、出番があること。居場所と出番を連動させること。様々なメニューがあること。公共政策としても様々なメニューを用意すること。 村総出の集まり、商工会、青年団、消防団(義務的にその団体に所属し、イベントなどに参加させられる類のもの)のような、強固な共同体ではなく、誰かが誰かを知っている共同体、ゆるやかで、たまには抜けることもできて、全員を隈なく知っている必要のないコミュニティを志向すること。楽しそう!って、主体的に参加したくなるアクティビティであること。本当におもしろい企画であれば、車で30分圏内なら誰でも参加しますよ。トンガっていれば、それが好きな人は必ず集まってきます。
そうすることで、会社や家族という共同体にだけ所属していたら会わなかった人に会えます。演劇を通じて学生がシングルマザーに出会う。音楽を通して障害者や高齢者に出会う。ワークショップを通して外国の労働者やホームレスに出会う。いろんな人に会ってゆるやかにつながることにこそ、持続可能な都市への可能性があると思っています。 昔はまちの中に原っぱがあって、そこが子どもやホームレスなど、どんな人をも包み込んできた場所だった。じゃ、今の時代に「原っぱ」を再現すればいいのかということ、全くそうではありません。かつては「原っぱ」がいろんな人の居場所になっていた。でも、今はただの「原っぱ」をつくっても、意味がない。新しい「広場」が必要だという私の表現の本意はそこにあります。 地縁血縁だけのつながり、企業や会社の経済のつながり、そんなつながりだけでは、あなたを守ってくれない。文化、つまり、なにか特定の物事への「関心」によって、その「関心」についてのつながりによってこそ、私たちは守られるのです。「あのサッカー好きのおじさん、どうしてるかなあ」「あの人、普段は雑だけどボランティアの活動はすごく熱心だよね」というふうに、誰かの関心のある分野において、誰かが誰かを知っている。 みんながみんなを知っている「窮屈」な共同体ではなく、誰かが誰かを知っている「ゆるやか」な共同体をつくる。出入り自由なネットワークを重層的につくる。このネットワークを、行政が把握できたとしたら、防災や福祉の分野で、ものすごく可能性のあるまちになるだろうなあと思っています。非常に難しいことだろうとは思いますが、挑戦しがいはあります。 → 次のページ「12. 宮沢賢治の農民芸術論で話を終えよう」
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